暗雲のたれ込める中。
月はとっくの昔に天空の支配者として君臨していながら、周囲を覆う暗雲の前にその光の欠片すら地上には届かす事がなかった。
その男は、ただひたすら黙々と一つの装置の前で作業を行っていた。
薄暗いカンテラの灯りの下、ロープを結び、或いはキルト布を『それ』に巻き付けたりしていた。
『それ』は、人のような形をしていた。
薄暗い灯りの下で見れば、確かにそれは『人』そのものに見えた。だが、よくよく目を凝らしてみれば、その顔は土色をしており、一つだけの深紅の目が、顔の中心にあるのみである事が解ったろう。
そう、それは『人形』だった。
彼の作り上げた、素晴らしい作品だった。そして、彼はその素晴らしい作品に、最後の仕上げと飾り付けを行っている所だった。
白い肌。とがった耳。そして、フードに隠された顔の奥にある暗い、切れ長の目。
彼は、恐らく『ハーフエルフ』であろう。
森妖精と呼ばれるエルフ。長寿で、美しく、長い長い生をゆるりと生きる神にもっとも近い一族。
とがった長い耳と、流れる密のような美しい髪を持ち、男女を問わずして人を魅了せずにはいられない美しさを持つ。
その一族と、人間との間に生まれたのがハーフエルフである。人とエルフの特徴を併せ持つが、耳はエルフほどに長くはないが人間ほどに丸くない。髪も、美しくはあるがエルフが持つ陽光のような光は持たない。
そして、人間の特徴である『生に急ぎ、死に急ぐ』生き方をする種族でもある。
そのハーフエルフは、闇色のローブをまとい、そのフードで顔の殆どを覆っていた。フードの奥に、もし光が見えたとしたらそれはいかなる光であったろうか。
「……いい風じゃないか……」
ぼつり、とテノールが風にのる。
「……そろそろ、頃合いという訳か…」
目を細めた彼は、そのまま手元のハンドルに手をかける。細い手首が、その手首より太いクランクのハンドルを回すと、軋む音を立ててゆっくりと『人形』が移動する。
『人形』は、巨大な籠に乗っていた。目が慣れてくれば、ハーフエルフが操作している装置は、攻城戦用の大型投石機、カタパルトである事が解るだろう。
投げられる石が置かれるべき場所には、『人形』がその赤い目を光らせて、キルト布を服のようにまとって、鎮座している。
軸木がしなり、カタパルトの用意はされた。あとは、彼がこのハンドルを抜き取り、巻き上げたロープを解放すれば……その時、一つの大いなる物語が始まりを告げるのだ。
「……さぁ……パーティの始まりだ」
再びテノールが風との合唱を行い、同時に空を切って『人形』は虚空を疾走した。
その先には、純白の王城があった。
……イシュタリア教皇国の王城、シュメールメリア城が。
……その半日前…日は高く、雲はやや多い物の陽光が柔らかく大地を暖めている時間。
陽光の降り注ぐイシュタリア教皇国首都シュメールメリア。その中心部に位置する、純白の王城、シュメールメリア城の城内で、甲高い声がこだました。
「………下がりなさい!!」
がつん、と音がして、メイドを呼ぶ為の呼び鈴がアーニーの左腕をしたたかに打った。
地面に転がり、バラバラになったそれを、アーニーは寂しそうに拾い上げた。
「……出ていって!! この……役立たず!」
「……申し訳……ございません…」
赤毛を三つ編みにしたアーニーが深く頭を下げると、そのまま部屋を出ていく。後に残された少女が、枕に顔を押しつけてすすり泣きの声をあげる。
『銀の月』と呼ばれる、イシュタリア王妃クレアが病に倒れたのは3日前の事である。
齢まだ10を数えたばかりの『黄金の日輪』第二王女アリシアは、健気に母親の看病を行い、その侍女であるアーニーもまた賢明にアリシアの看病に手を貸した。
その甲斐あって、徐々に病は快方へと向かい、アリシアとアーニーは手を取り合って喜んだ。
だが、そんな折り、ほんの軽い気持ちでクレアが発した一言が、その後の二人を大きく隔ててしまう事になってしまうのだった。
「……『大地の月』が食べたいわね……」
大地の月、とは黄色く、湾曲した果物である。それがいくつも房になって木に実を結ぶ。
その大地の月をクレアは所望したのだ。彼女の好物である。そして、それはそんなに珍しい物でもない。城下町に出て商人を訪ねれば手に入るようなものだった。
病床の母の役に立ちたい。無邪気な少女らしい、真っ直ぐな感情からアリシアは直ちにアーニーを呼びつけ、大地の月を入手するように指示を下した。だが……。
彼女は大地の月を手に入れるため、城下町を訪れる商人達を訪ねた。だが、どういう訳か商人達の荷の中に大地の月は見あたらなかった。
アーニーは1日、2日とひたすら城下を駆けめぐった。食事もとらず、睡眠時間を削り(彼女には城内での侍女としての仕事もあるのだから)ただひたすらに大地の月を探し求めた。
彼女の努力はようやく実を結んだ。彼女は、大地の月をかろうじて一房だけ入手することに成功したのである。
イシュタリアは法と秩序と正義を司る、ファリスを信仰するファリス教を国教とする宗教国家である。王城であり、同時に首都でもあるシュメールメリアはその聖地として、多くの巡礼者が毎日のように訪れる。
アーニーに一房の大地の月を渡したのは、そんな巡礼者の一人であり、イシュタリアの南東に位置する大国フォルトランド王国の貴族、ハイハット卿だった。
走り回り、大地の月を探し続ける彼女の姿を見てハイハット卿が心打たれた…と言われている。その裏に下心があったかどうかは解らない。アーニーは赤毛にクリーム色の肌、陽光にすかした菫の花びらの色の瞳を持つ美少女なのである。
一房の『大地の月』を持ち、城内のクレアの部屋に戻ったアーニーは、しかし山の様に積まれた、彼女の手にあるのと同じ物を眺めて呆然とした。
泣きじゃくり、ヒステリーを起こしているアリシアと、勝ち誇ったように笑みを浮かべて満足そうに母親の前に大地の月の山を築いている、アリシアの姉…第一王女レフィア。
アーニーは悟った。元々嫉妬深いレフィアが、アリシアの純真な気持ちを踏みにじるために、そして母親の興を自らに集めさせるために、城下の全ての大地の月を買い占めさせたのだという事を。
……そして、今、アーニーは姉妹の様に仲良く育ったアリシアから、この仕打ちを受けたのである。
アーニーは血の滲む左腕を押さえながら、右手の壊れた呼び鈴を見つめた。アーニーが初めて貰った給金でアリシアにプレゼントしたものだった。
目の端に涙が滲むのを感じていた。
この城に仕えて7年。アリシアが3歳の時から、彼女はアリシアの8つ上のお姉さんとして彼女とすごしてきた。
むろん、侍女としてであるが、アリシアはいつも側にいる彼女を誰より信頼してくれていた。
平民の家に生まれ、8人姉弟の長女として10歳までをすごしたアーニーは素直で心優しい少女だったし、そんなアーニーを慕うアリシアはやや我が儘ではあったものの、純粋で感受性の強い少女として成長した。
その姉、第一王女にして王位継承第一位であるレフィアは、『白金の炎』あるいは『真夏の嵐』と呼ばれるほど激しく、我が儘な性格の持ち主だった。
感受性に乏しい。それは、日々文官や頭の固い侍女頭に囲まれて育った所為もあるだろう。
常に傅かれながら、己の自由に出来る事の何一つない彼女は、そのストレスを肉親へといつしか向けていた。素直さと、自由さと、明るさ、そして心優しき理解者にして保護者。
彼女が持ちたくて持てなかったあらゆるものを持つ妹は、或いは憎悪の対象にすらなったのかも知れなかった。
……そして、夜のとばりが降りる。
アリシアの部屋の前で、扉を叩き、寝具を換える旨を伝える。だが、返答は沈黙と、そして投げつけられて無惨に飛び散った夕食の残骸。
無力感。深い哀しみの中に包まれてアーニーは部屋の扉を後にし、自らの寝室……アリシアの部屋の向かいへと退いた。
『それ』が城内の一角に着地したとき、ちょうど側には誰もいなかった。その事を確認するように周囲を見渡した『それ』……人形……は、スムーズな動きでゆっくりと城の灯りの作り出す影へと、滑るように移動した。
アーニーはふと目を覚ました。
いつの間にか月明かりが室内を照らし出していた。白い光は灯り取りの窓から射し込み、柔らかい色の絨毯を冷たい色に染めていた。
左腕を見る。痛みはある。包帯に血が滲んでいる。
……だが、そんな事よりもっと嫌なものが心の中にわき起こっていた。
彼女は昔から勘が鋭く、特に悪いことが起こる直前に必ず悪い予感を感じていた物だった。今も、その時の感じに近い……いや、それよりはるかに強く、冷たい悪寒が身体の内部にわき起こるのを感じていたのだ。
彼女はゆっくりと身を起こす。夜の見回りの時間には夜番の侍女が起こしに来る筈だったが、まだ来ては居ない。まだ少し早すぎたのかもしれない。
だが、起きてしまったものはしかたがない。彼女は月明かりの下にある、自分の制服を手に取ると身につけていく。早めに見回りを初めて、安全を確認すればこんな嫌な予感は単なる思い過ごしだと解るはずだ。
彼女はカンテラと短剣を握り、カンテラに灯りをともして部屋の扉に向かった。
『それ』は、ゆっくりと、ことさらゆっくりと暗い通路を歩いていた。足音は巨体に似合わず全くしなかった。ただ、光る紅の目だけが暗闇の中を滑るように進んでいた。
『それ』は、『見る』事は出来なかった。だが、その行く手に小さな灯りが見えたとき、その動きはぴたりと止まった。
『それ』は、臨戦態勢を整えると、身を沈めてその瞬間を待ちかまえた。
アーニーが最初に『それ』に気付いたのは、ぬかるんだ足下がぱしゃり、と水音をたてた時だった。
城内に水漏れがあるなどと聞いては居ない。第一、さっきまで雲が垂れてはいたが、実際に雨が降った形跡はない。
カンテラの明かりをゆっくりと下に向けると、そこには壊れたカンテラが転がっているのが見える。形も彼女の持っている物と変わりない。
……そして、その側にたまったどす黒い液体は、アーニーの足下にまで流れていた。
油ではない。それは、カンテラの側で仰向けに倒れている、かつて人間だったものから流れていた。
「ヴァネッサ!」
夜の見回りの時、いつも起こしに来てくれる夜番の侍女の姿が、その先にあった。
彼女の良く知ったその顔は、かつて快活にくるくると変化を見せたその表情は、恐怖という感情以外を切り捨てたかのように見えた。彼女と良く仕事を共にしていた両手は、固く握りしめられていた。
その胴体は無惨に切り裂かれていた。そして、その生命の炎は既に消え失せていた。
「……いったい……誰が……」
震える声で呟くアーニーに応えるかのように、『それ』は立ち上がった。
はっと顔を上げた彼女には、最初魂の火がゆっくりと彼女に向かって来たのかとさえ感じた。
だが、『それ』が近づいてくるに連れ、その巨大な輪郭が暗闇を切り抜いたかのように浮かび上がってきた。
「……何?」
片手で短剣を握る。いざというとき、アリシアの護衛を務めなくてはならない彼女は、親衛隊での訓練に参加して技量を磨いていた。
なまじっかな賊や狼程度の動物ならどうにかあしらえる程の技量は備えていたし、一般の警備兵に比べても勝るとも劣らぬ実力はあると自負していた。
だが、このような異形を目の前にして、彼女のそんな自負は紙切れのように薄っぺらな物に感じてしまう。がたがたと膝がふるえ、手に持った短剣がまるで丸太のように重くなる。
そして、プレッシャーは確実に迫ってくる。彼女の友人でもあった足下に転がる少女が感じていたであろう恐怖を、彼女もまた味わっていた。
「止まりなさい!! ……一体何者なの?!」
だが、『それ』の歩みは留まるどころか、さらに歩調を早めて彼女へと迫る。震える両手を叱咤しながら、彼女は再び声を張り上げる。
「止まらないなら、あなたを攻撃します。早く名乗りなさい!!」
だが、ついに『それ』は彼女が我慢できる臨界線を突破した。半ば怒りに、半ば恐怖に支配されて、アーニーは渾身の一撃を『それ』の胴体と呼べる部分へと突きだした。
ざくっ!!!
鈍い感触と共に、その一撃は『それ』の胴部を貫いた。そして、その一撃が相手に普通であれば致命の傷を負わせるに十分な一撃であることをアーニーは自覚していた。
現に『それ』の動きは止まり、よろめくように数歩後ろへと下がり、多々良を踏んで止まる。
(……効いてる?!)
アーニーの表情に僅かにであるが、余裕が戻る。攻撃が効かない相手ではない……ならば、倒すことも撃退する事も可能ではないか!!
彼女はそのまま短剣を引き抜いて、相手の様子をうかがった。『それ』自体は、その一撃を受け止めたあと暫くその場に留まったまま動こうとしなかった。
「……さぁ、名乗りなさい。命までは……」
その言葉が半ばにさしかかった頃、不意に『それ』は動いた……ように彼女は感じた。
気がついたときには、彼女は友人のすぐ側に倒れていた。頬から首にかけて、しびれたような感じはするが、痛みは不思議と無かった。
ただ、目の前に無惨な友の姿を見、片手で握っていた筈の短剣は既にどこかへと吹っ飛ばされていた。地面に落ちたカンテラから、細い光が走り、彼女と『それ』の間に少しの距離がある事が伺えた。
そして、『それ』は、血糊のついた右手の爪を、誇らしげに振り上げていた。
「……ぐっ…」
口元が血にまみれ、再び鎌首を擡げた恐怖という感情が、彼女の動きを見えざる鎖で縛りはじめる。
ゆっくりと、手をついて身体を起こす。彼女にとって、この敵は到底敵う相手ではないと自覚するに十分な一撃だった。
「………あ……う……」
身体を起こす。彼女は決して動きが鈍いわけではないのだが、『それ』の動きの前では静止しているに等しい動きしか出来なかった。
再び、数歩の間合いを一瞬にして詰めてきた『それ』が、顔を上げた彼女の目の前で右腕を振り上げている。彼女は咄嗟に左手をあげて顔をカバーする。
だが、それは、薄紙で達人の剣を止める様な行為だった。一瞬、灼熱した感覚が左手を襲い、その次の瞬間には彼女の左手は、二の腕から先を斬り飛ばされていた。
「ぎゃああああああっ!!!」
苦悶の悲鳴と共に、右腕で喪われた左腕の先を抑えながら、腰を抜かして地面に頽れるアーニー。だが、『それ』は再び無慈悲に右腕を振り上げた。
「……いや……いや……や………た、たす……たすけ………」
言葉にならぬ言葉を必死で紡ぎながら、アーニーは両足を痙攣させるかの様にしてゆっくりと後方へと逃れようとする。だが、数歩の間合いを一瞬で詰める『それ』の前で、そんな行動が一体何になっただろうか?
城門の見張りは、退屈な割に過ぎる時間が遅く、人気のないポジションの一つだった。
パトリックは既に兵役について1年を数えようとしているのに、未だにこんな下らないポジションに着かされることに憤りを感じていた。
「ったく、警備団長はカタブツだから……」
等と愚痴をこぼしてみても仕方がない。平民出身の警備団の団長は、不公平の無い勤務態勢をと銘打って彼のようなベテランをこんな退屈でつまらないポジションへと着ける。
パトリックにしてみれば人的資源の無駄遣いにしかなってない気がした。
「交代に来ました」
不意に背後で声が聞こえ、ようやくこの長い勤務から解放される……そう思って、パトリックは大きくのびをした。
「遅いぞ、ジーン。交代要員は早めに到着する決まりだぞ」
「そんな決まりありませんよ」
「……口の減らねぇ」
こぼしながら、彼はここ半日であった事を一つ残らずジーンに口頭で伝える。ジーンは警備団長のお気に入りで、まじめさだけが取り柄の男であった。
そのまじめなジーンは、羊皮紙にペンで次々とパトリックの口から語られる物事を書き込んでいく。これといって異常は無かったが、それでもジーンは一つ一つきまじめに書面へと書き込んでいくのだ。
「ま、そんな所だ。それじゃ、後は頼むぞ」
「ダメです。これから一緒に巡視経路を見回って、それからパトリックさんが下番する事になります」
「いいじゃねぇかよ、そんなの。大体俺はもう疲れてるんだ。休ませてくれよ」
「規則です。さ、行きましょう」
ぺっ、と唾を吐くと、先に立って歩いていくジーンの後頭部に蹴りを見舞う事を想像しながら、パトリックは歩き始める。
だが、ほんの数歩歩いたところで、彼らの耳に異様な物音が聞こえてきた。
「………なんだ?」
「……悲鳴?」
同時に言葉を発した二人が、お互いの顔を見合わせると、その悲鳴の聞こえた方へと走りはじめる。悲鳴は、城内の一番奥……王妃と王女の住まう御殿から聞こえてきたのだ。
王妃クレアが目を覚ましたのは、別に物音に驚いたからではない。単に、風邪気味で調子の悪い喉が痛むからである。
冷たい水を飲みたいと思い、侍女を呼ぶベルを探る。
……りん……。
いつもなら、この音一つで侍女が飛んでくる。だが、何故か今夜は人の気配すらしない。
「……??」
かすれた声でいくら侍女を呼んでも聞こえまい。何度も何度もベルの音を響かせるが、やはり誰も来る気配がない。
「……当直が寝てるのかしら。たるんでるわね……」
そう呟くと、クレアは半身をベッドの上に起こす。
そこではじめて、室内にある影に気がついた。
「……なんだ、そこにいたの。来たのなら何か言いなさい」
叱りつけながら、水差しを手にとって侍女に差し出す。だが、その影は水差しを恭しく受け取ろうともせず、ただじっと突っ立っていた。
「……何してるの、早く水を汲んできて」
だが、その影が侍女の物などではない事にすぐに彼女は気がついた。
『それ』の大きな影と、その顔の部分にある赤い光がクレアの姿を認めると、次の瞬間にはその右腕を一閃させた。
既に2人の血肉にまみれたその右腕の先の爪が、クレアの頭部を捉える。
そのままの姿で数瞬、動かなかったクレアの身体が、ゆっくりと崩れ落ちる。その頭部のあった場所からは、止めどない血があふれていた。
クレアの頭部だったものは、壁に叩き付けられて無惨な肉塊になっていた。
「……な、なんだこりゃあ!!」
叫び声に、『それ』が振り返る。
入り口の所には、二人の衛兵の姿があり、手にした剣は既に抜き放たれている。
「ば…………化け物………」
片方が呟く。もう片方は幾分場数を踏んできているのだろう。無言のままに剣を構え、一気に『それ』へと迫った。
さすがにその一撃をもろに受ける気はなかっただろうか、『それ』が左腕を振るい、突進してきた衛兵の剣を弾く。だが、衛兵は弾かれた剣を再び構え直すと振り上げた左腕の下をくぐるように剣の一撃をたたき込む。
「ジーン、応援を呼べ!! こいつぁ……ただの化け物じゃねぇぞ!!」
緊張した声でその衛兵は叫ぶ。入り口で怯えていたもう一人は、何度も頷くとそのまま背を向けて走り去った。
「さぁこい、化け物!! このパトリック様が相手だ!!」
再びパトリックが剣を振り上げ、左腕の関節を狙って振り下ろす。『それ』は、その一撃に対して反応が遅れ、剣の一撃が左腕の関節をしたたかに叩く。
が、まるで痛みなど感じていないように『それ』は右腕を振るう。あまりの速さにパトリックは反応できず、その一撃を左肩にまともに受けてしまう。
ごきっ!!
鈍い音と共に骨が砕ける。彼も数度の盗賊討伐などでそれなりの戦果を挙げてきた勇者であったが、この恐るべき人外の前には赤子と大差はなかった。
意識を失い、地面に叩き付けられた彼の頭部を踏みつぶすと、『それ』は再び歩き始める。
窓を突き破り、地面へと飛び降りると、走りはじめる。あらかじめ調べて置いた脱出経路に。
少々、ダメージを受けた。だが、『それ』の動きは全く鈍ってはいない。
彼は、目を開けると目の前の水晶玉から手を離す。視界が再び彼の物になると、遠くから最後に与えた命令通りに彼に向かって走ってくる『それ』の姿が見える。
再び水晶玉に手を置くと、彼の側にある馬車へと『それ』を載せる。馬車には先ほど『それ』を飛ばした投石機が牽引されている。
後は、帰るだけだ。
「ふふふ………ふはははははははっ………はははははははははははっ……」
大笑いしながら、彼は馬車の御者台へと飛び乗る。すぐに追手がかかるだろうが、誰がやったかなど誰にも解るまい。
馬車は走り去り、後には轍だけが残された。