空の色は血のように赤かった。
そして、彼の手には同じ色の……いや、もっともっと深紅に近い色のバンダナが握られていた。
もうこの世には居ない、彼に世界の広さを教えてくれた…師の形見である。
「……ゼクス」
ゼクスの耳に入ってきた声は、いつの間にか彼のそばに立っていた友人のものだった。
「……決めるのは、お前だ。俺は、いつでもお前の望むとおりに動いてやろう」
「………オッサンの人生を、オレが縛る訳にはいかねぇよ」
「違うな。縛るんじゃなく、つきあってやるんだ。……で、どうする?」
「……後悔するなよ、オッサン……」
ゼクスがニヤリ、と笑うとそのままテキサスの方に向き直りつつ立ち上がる。
「……兄ぃ……砂嵐の兄ぃ、オレは行くぜ。兄ぃがなぜ止めたかしらねぇが、オレはもう世界がどんなに広いか興味を持っちまった。……それなら、行くしかねぇだろ?」
冬の日は短い。周囲の朱が徐々に深紅へ、そして漆黒へと変化を遂げていく。
そして、ゼクスの問いに答えるのものは居ない。
「……また、帰ってきたらみやげ話を聞かせてやるよ。……じゃ、あばよ!」
たった一言、その言葉を残して彼は墓標を背にした。
向かうべきは過去にはなく、未来にのみ存在すると、本気で彼は信じていた……。
「………ぐぇ」
すぐ側……本当に耳元で、彼は聞き慣れた声を聞いた。
「……オッサン……なんて声……ぐぇ……」
ゼクスの言葉は途中でとぎれた。凄まじい吐き気と頭痛が彼を襲い、回転する世界が彼をもてあそぶ。
「……ぐぇ……いったいなんなんだ……この二日酔いにも似た気分の悪さは……」
「二日酔いだよ」
不意に頭上で声が聞こえ、ゼクスは顔を上げる。渋面を作ったメスロンの顔が視野に入ってくる。だが、問題は違うところにあった。
「……なんだこれは……」
「縄、だね」
「なんでこんなところに?」
「君を縛るためだね…」
「何でオレが縛られなきゃいけねぇんだ!」
そう、あたかも芋虫か何かのように、彼は全身を縄でぐるぐる巻きにされていたのである。じたばたと蠢きながらゼクスは精一杯の虚勢を張ってみせる。だが、頭上にいる男……耳の長さから、ハーフエルフであると見て取れた……は、どこ吹く風と言わんばかりに表情をにっこりとゆるませる。
「それは、この部屋にはか弱いハーフエルフのメスロン君と、うら若き乙女のリリスさんが宿泊しているからだよ」
「……あぁ?」
眉根を寄せて考え込むような仕草をするゼクス。だが、メスロンと名乗ったエルフはにこにこした表情を変えることもしない。
ふと気がつくと、友人であるドワーフのテキサスはゼクスの肩の辺りに顔を乗せたままいびきをかいている。時折「ぐぇ」という声が聞こえるのはげっぷか何かだろうか……。
「なぁ、ところで、だ」
ゼクスが諦めたようにメスロンに声をかける。
「そろそろほどく気はねぇか?」
「まだリリスが寝てるからね」
「寝てたらどうだってンだ?」
「君たちがどんな人間か解らないからね。もし暴れられたりして彼女に怪我なんかさせた日には……」
「許さねぇってか?」
「いや、僕が殺されてしまう……」
大きなため息とともに情けない言葉を吐くメスロン。ゼクスはがっくりと首をうなだれると、そのまましばらく突っ伏していた。
「で、もう少ししたら彼女が起きるわけだ。そしたら、君たちの縄をほどいてだなぁ……」
「……ションベン、出そうなんだが……」
「お、おい、ゼクス!!」
不意に肩の辺りで声がする。いつの間にか目を覚まし、さらに蒼白になったテキサスが懇願するような顔でゼクスを見上げている。確かにこの状態でそんなことになれば、被害を受けるのは彼に他ならない訳だが。
「んだよ、オッサン、起きてたのかよ。ちょうどいい、このヤロウに一つ思い知らせてやろうと思ってだな……」
「方法が悪すぎる!!」
悲鳴に近い声を上げると、テキサスが必死でゼクスから離れようとする。と、不意にゼクスの体を縛っていた縄がゆるめられる。
「……僕がほどいたと言うのは内緒にしておいてくれよ……」
「……恩に着るぞ……」
ため息をついたメスロンがゼクスの縄をほどき、テキサスが心の底から感謝したような声を放つ。
「冗談じゃないんだ。この男、やると言ったら本当にやるからな……」
「あったぼうよ、このオレ様を誰だと思ってるだ? ゼクス・グランバス、バーバリアンで16歳だぜ?」
いつものせりふを言うゼクスに、冷たい視線を浴びせながらテキサスがあっちいけ、という風に手を振る。
「あぁ、わかったわかった。早くションベン行って来い」
「うひぃ、助かった助かった〜」
騒々しく出ていくゼクスを見送ると、メスロンはため息とともにテキサスの縄をほどきにかかる。
「まぁ、いいけどね。そろそろ僕たちも出発しなきゃいけない時間だ」
「……なぁ」
テキサスが鋭い目をメスロンに向ける。
「…お前さん、一体何者なんだ?」
「……ハーフエルフのメスロン君だよ」
「そうじゃない。なんで俺達をこうやって拾い上げた? あのまま放っておいても誰も責めたりはしないだろうに」
テキサスの目は酔っぱらいの目ではない。鋭く、突き刺すような視線は熟練した冒険者のそれであった。
「……そうだね。僕たちは命というものを大事にしていてね。だから、君たちがあそこで凍死したりするのを見逃すわけには行かない……」
「…………」
「……ということで納得はしてもらえそうにないね。とりあえず、君たちにも用はあったんだ」
「……用だと?」
食えない態度をとるメスロンと、いらだつテキサス。だが、お互いの表情はかわっていない。
にっこりとほほえんだメスロンに、鋭い目つきのままメスロンをにらむテキサス。
「……そう。用だ。それだけでも覚えていてもらえればいい」
「何の用があったんだ?」
「それは秘密、ですわ」
新たな声が会話に加わる。いつの間にか身支度まで整えたリリスが、メスロンの側に立って背の低いドワーフのテキサスを見下ろしている。
「……ハイ・エルフ……か?」
もっとも神々に近い種族、と言われるのがハイ・エルフである。病気や事故でなければ死ぬこともない、無限の寿命を持つ、地上にあっては唯一の種族である。
蜂蜜色の流れるような髪、透明に近い、薄い色合いの瞳。ハイ・エルフ達のもっとも顕著な特徴である、瞳孔の形は縦長で、猫のような印象を受ける。
メスロンの紺色の髪と瞳に比べれば、リリスのそれは無色に近い印象を受ける。
「……秘密……か。当事者に秘密にしなきゃいけない用って何なんだ、一体」
「だから、秘密、ですわ。さ、そろそろ私達は出発しなくてはなりませんわ」
「……そう、だな。君たちとはまた、近いウチに会いそうな気がするよ」
「………そのときには説明をちゃんとしてもらいたいものだな」
「すぐに説明は受けるさ。…………すぐに、ね」
メスロンとリリスが、それぞれの旅支度を調えてテキサスの側を出口へ向かって歩き始める。ちっ、と舌打ちしたテキサスが、部屋の隅に自分の愛用の大剣と荷物を見つける。
「……宿代は、おごってあげるよ。ラッキーじゃないか……一晩タダで泊まれたんだ」
「確かにな。この町で何か仕事を探さなきゃならないと思ってたところだ」
「……だったら、安心していい。仕事はあるさ」
メスロンがリリスに続いて部屋を出る。最後に、顔だけを扉の隙間からのぞかせると、彼は最後にこう付け加えた。
「……とびっきりのが、ね」
扉が閉ざされる。残されたテキサスがため息とともに再び床に座り込む。
(……とびっきり……だと?)
「オッサン!」
30センチほど飛び上がったテキサスが顔を向けると、見慣れた相棒の顔が扉の間からのぞいていた。
「な、なんだ、ゼクスか……脅かすな」
「脅かしてねぇよ、オッサン!! ……ところで、あのエルフヤロウどもは一体どこ行ったんだ?」
「もう出ていったよ。なにやら含みのある事を言い残してな」
「含みのあること?」
「………いや、なんでもないさ」
テキサスが立ち上がる。まだ青年と言われるほどに若い彼ではあるが、さすがに一日縛られた後では体のあちこちが痛い。
「……それより、俺達もそろそろ出ないとな。宿代はおごりだそうだ」
「ホホウ。ラッキーじゃねぇか」
「…………」
「それより、仕事だ仕事。今日中に何か見つけねぇと今夜の酒は飲めないぞ」
「それは困るな」
テキサスが荷物を拾い上げ、ゼクスに放り投げる。それを片手で受け取ったゼクスは、窓から差し込んでくるまばゆい陽光に目を細めつつ外を眺めやる。
フォルトランド北部の、名もろくに知らぬ朝は奇妙なあけ方を迎えた。……一日はどんなに奇妙になるだろうか?
だが、彼はそれらすべてを楽しむ覚悟が出来ていた。そうでなくては冒険者などつとまらない……。
「……さて。仕事と言えばやっぱり冒険者協会、だよな」
「だな。……早速行ってみるか」
「馬鹿野郎!」
ゼクスが怒鳴る。テキサスはいつものこと、と言わんばかりの顔でそんなゼクスの声を聞き流していた。
「朝はまず、迎え酒だろうが」
「ねぇ、レイア〜。貴女の言ってたのって、これでよかったっけ〜?」
「………」
レイアが黙ったまま、シャールの差し出した壺を受け取り、一瞬香りを確かめて無言のままそれを彼女に押しつける。
「……違うの……」
「……違うわ」
そのまま彼女は別の棚に向かって歩き始める。シャールはため息をついてその壺……『紅茶』と書かれた壺を棚に戻す。
レイアは紅茶の味にはうるさい。ハーブ・ティーが気に入っているようだが、この人間が思いついた嗜好品の、もっとも上質な…あるいはもっともレイアの気に入った状態のものを手に入れるのが非常に難しいことを、ここ数日シャールは思い知らされていた。
「……レイア〜……一体何が気に入らないんだよ〜」
「香りがきつすぎるわ。それじゃ、味が鋭くなりすぎて……」
店主がイヤな顔をする。さっきからこの調子で手にとってはダメ、手にとってはダメの繰り返しなのだから。そんな店主の顔を横目に、シャールも自分自身が魔法の行使に必要な香を探す。
「あ、これとこれだ……」
シャールは魔術師(ソーサラー)である。この世界には、空気にとけ込むようにマナ、と呼ばれる物質が大量に存在する。これらは普段は人間の生活になんら関わることはない。
だが、魔術師達はそれら『マナ』に働きかけ、物質化して利用する事が出来る。……代償として、長い時間をかけての修練、才能を必要とする。
しかも、物質化するときに強いイメージを伴う精神エネルギーが必要となり、そのための修行も必要とする。さらに、イメージを具現化するために呪文と呼ばれる言葉の綴りが必要となる。
一言一句正しく発音しなくてはならない。その言葉の韻と、その際に生じるイメージが魔法の源となるわけである。
一方、レイアは精霊術師である。これは、マナを介せずに世界を作り出している元素的存在…いわゆるところの『精霊』達に意志を伝え、使役する者達である。
一説によれば、精霊と言うのは自然にマナが物質化した存在であり、そのためか彼らを使役する時には魔術師と同じようにイメージを伴う精神エネルギーが必要となる。ただ、精霊達はすでに特定の形(炎や水など)をとっているため、特別な呪文の言葉などは必要としない。心の中にイメージし、身近な精霊を感知し、その精霊に意志を伝える事が出来れば良いわけである。
エルフ達は人間よりずっと精霊に近い生活をしている。故により素早く精霊の気配を感知し、より効率的に精霊達に言葉を伝える事が出来る。エルフ達は生まれながらにして優れた精霊術師となりうる素養を持っている訳である。
このほか、神官と呼ばれる者達がおり、この世界に干渉しうる強い力を持つ神(または悪魔)に祈りという形で意志を伝え、超常現象を起こす事の出来る者もいる。
こういった力を持つ者達を『スペルキャスター』と総称するが、これは彼らが一様に力を発揮するときに言葉を用いることが多いためである。
買い物を済ませた二人は、そのまま大通りをぶらりぶらりと歩く。元々人間達の中に埋もれて生活するのが嫌いなレイアであるが、こうも人通りが少ないとそういう部分はなりを潜める。
実にのんびりした町であるが、この町はフォルトランド北部での冒険者達の拠点となる。だから、このゆったりした町の中でもこの一角だけはにぎわっているのである。
『冒険者援護協会』
冒険者、つまりレイアやシャールのように、旅から旅の生活を送るいわゆる『流れ者』達のために、行く先々で支援を受けられるために設立されたのがこの協会である。
仕事の斡旋や、宿の確保、旅の装束から便利な道具、果ては地域ごとにある『魔術師学院』への紹介状の用意までしてくれる。魔術師学院は通常流れ者は相手にしないから、この紹介状は必要不可欠である。
今レイアとシャールが訪れたのは、その協会の建物である。時間がやや中途半端……午前もやや遅くなり始めた時間……だったためか、人の影は少ない。
まさにそのためにこの時間にしたわけだが。
「割のいい仕事?」
態度の悪い事務員が、その態度にふさわしい声で彼女たちに応対する。
元々『亜人間』と呼ばれる、エルフやハーフエルフ…それに、ドワーフ達にたいしてあまり良い感情を持っていない事務員のようだ。
その感情をむき出しにした態度で二人に対応する様は見ていて見苦しいと思えるほどで、実際室内にいた数人のハーフエルフ達が露骨に憎しみの目を事務員に向ける。
そんな視線などどこ吹く風、と言わんばかりの態度で彼は面倒くさそうに掲示板を指さす。
「あそこ見て、気に入ったのがあればもって来い。紹介してやるから」
再び手元の本に視線を落とす。まるで彼女たちの存在など忘れてしまったかのように。
レイアとシャールはお互いの顔を見、肩をすくめるとそのまま掲示板の方に向かう。こんな態度をとられるのももう慣れっこなのである。
「地図の作製……期間は……1年?!」
「それは問題外ね」
「こっちは、パン屋さんの配達、こっちは畑仕事の手伝い……って本当にここ、冒険者協会?」
「怪しいわね」
「あ、……これ」
シャールが手を伸ばすと、一番上に張り付けてある紙を手に取る。そこにはこう記されていた。
『荷馬車護衛募集! アパレンタイズの村に物資を運ぶための護衛を募集します。知っての通りこの経路は現在もレイベン−イシュタリア軍の交戦地域が近く、そのため傭兵崩れの山賊達が横行しています。彼らを撃退できる腕の持ち主を募集……』
「……報酬は?」
「相談の上で…だって。なんでだろ?」
「みんな逃げ出すからさ」
不意に声がかかる。振り返ると、そこには背の高い傭兵風の男が腕組みをして彼女たちを見ていた。
「山賊達、とはいえ相当腕の立つ連中だ。それに、飢えてるから容赦もない。下手をすれば本当に皆殺しにされかねない。だから、みんな最初は報酬につられて仕事を受けるんだが、ベテラン達の話を聞いて逃げ出すわけさ」
「……貴方は?」
「ステューシア・ランダース。傭兵をやってる。この仕事は今回で二度目だが、ね」
左手を差し出す。レイアはそれを無視すると、そのままステューシア、と名乗った男の側を通り過ぎる。
「……これ、いいかしら」
事務員に羊皮紙を差し出し、事務員はそれを受け取ると机の下からなにやら木の札のようなものを取り上げると、それをレイアに渡す。
「あんたら二人分でいいのか?」
「えぇ」
「じゃ、これとこれ。場所はこの札の裏に書かれている。そこへ言って説明を受けてこい。キャンセルするのは自由だが、そのときには違約金をもらう。ところで、あんたらもう会費は払ってるのか?」
「えぇ。私はね」
「あたしも払ってるよぅ」
「ならいいんだ。じゃ、さっさと行け」
再び本に目を落とす事務員。手元の札をひっくり返すと、そこに通りの名前と建物の名前が書いてある。
やや不親切な書き方だが、解らないほどではない。
「……本気か? 言っておくが、遊びじゃねぇんだぞ? それに……」
とシャールの方をじろり、と眺める。
「魔術師は役にたたねぇ。揺れる馬車の上で呪文を唱えられるほど熟練してるとは思えねぇんだがな」
「……そんなことないよ」
「行くわよ、シャール」
再びステューシアを無視したレイアが、シャールの方を見もしないですたすたと歩いていく。
「わ、待ってよ、レイア〜」
「……………」
そんな二人を見送るようにステューシアが目を細める。外の陽射しがやや強くなりつつあり、フォルトランドの冬の短い日中の、もっとも明るい時間が訪れようとしている。
「……どう?」
ステューシアの背後にはいつしか二つの影があった。
黄金に輝く太陽の色の髪を持つ乙女と、紺色の髪を持つ青年。
……リリスとメスロン。
「……あれがかい? えらくまた今回は華奢じゃないか」
「仕方ないわ。今回はなんか毛色の変わったのが多いのよ」
「ほう。何人?」
「6人。……しっかり頼むわ」
「……解ったよ」
ステューシアが片手をあげると、そのまま扉に向かう。
「あ、そういえば」
メスロンが声をかける。ステューシアが振り向かず立ち止まると、ぱたぱたと手を振る。
「解ってる。姉さんは無事……だろ?」
「………あ、あぁ」
「無事じゃなかったら……」
つぶやくように残すと、ステューシアは扉から外に出る。メスロンがため息をつき、リリスは髪をばさり、とかきあげる。
事務員が咳払いをし、ようやく室内にいた他の影が掲示板に近づいていく。
……何かが、いつもと違うことは誰もがわかっていたのだ。
「おはようございますっ!」
いつもの事だ。
アリエッタの声で緋黒は目を覚ます。そのときにはなぜかもう髪は丁寧に梳かれており、目の前には暖かな食事と紅茶がおかれている。
いつのまにか身体はベッドの上に起きている。座っている。なのに、記憶をたぐればどうやって体を起こしたとか何をしていたのかも思い出せない。
黙ったまま緋黒は紅茶に手を伸ばし、口を付け、黙ったままそれをテーブルに戻す。
黙ったまま顔を巡らせ、そしてアリエッタの姿を探すが、その時にはすでに彼女の姿は室内にはない。
それも、いつもの事だ。
「………」
機嫌が悪いわけでは、決してない。ただ、彼女は朝が弱いのだ。本当に弱いのだ。
目を覚ました時にはすでに日は高い。
それも、いつもの事だ。
「…………エッタ」
「はい、旦那様?」
扉の向こうから、見慣れた、彼女の旅の友人が顔を出す。髪がすこし乱れ、汗が頬を伝っている。どうやら、重いものを運んでいた最中のようだ。
「……布団干しか?」
「えぇ、旦那様、お目覚めになられましたらお布団、干しますです」
「解った」
再び扉の向こうに姿を消した友人を見送ると、彼女はようやく重くて鈍い身体をゆっくりとベッドの縁から起こし、立ち上がる。
「んん〜〜〜〜っ」
大きくのびをする。と、鼻腔をくすぐる、朝食(実際には昼食だが)の香りが肺を満たす。
サイドテーブルを少しずらし、食事をとれるように窓の側に持っていく。
彼女は窓から見る景色が好きだった。そこには、人の営み、生命の息吹、あるいは自然の表情が存在する。
日は高く、空は青い。風が運んでくるのは草木が発する青臭い香り、土の発する香り。いずれもどこかしらなつかしい香りである。
緋黒が食事を終えた頃、アリエッタが扉を開き、テーブルの上の食事を片づけてしまう。
彼女は先にちゃんと食事をとっただろうか?
ちゃんと夕べは寝られただろうか?
そして、ちゃんと身体を休めているのだろうか?
「旦那様、ご用意が出来ましたらおよびくださいです」
「……今は何をしてるんだ?」
「洗い物してますです。今日はお天気がいいから、今夜のお布団はふかふかになりますです〜」
ベッドの上からは布団が姿を消していた。そこにしかれたマットレスの上に、彼女の旅支度がまとめておかれている。
後はこれを手にすれば用意が出来るというものだ。
「……エッタ」
「はいです?」
窓の外から声がする。ちょうど緋黒の部屋の向かい側にある屋根の上から。
ピンクの髪が鮮やかな日の光を受けて揺れる。
「もう少ししたら、準備出来る」
「はい、解りました!」
元気な声が聞こえてくる。大丈夫だろう。今日は一段と元気が良さそうだが、これはきっと天気の所為だ。
「ところで、エッタ。私も何か手伝おうか?」
「大丈夫ですっ!」
「しかし……」
「もうこちらも終わりますです。そしたら、またお話聞かせていただきに参りますから〜」
「そうか…」
彼女は再び窓の側に座り直す。彼女の大切な友人は、屋根の上で布団達をどうやれば効率的に干せるのか、と思案している。
「……いい天気だな」
「えぇ」
さほど大きな声ではない。だが、彼女の声は友人に届く。……それもいつもの事だ。
「少し仕事をして、路銀を稼いだら、どこかでしばらくゆっくりしないか?」
「えぇ、いいですねぇ」
「その時は手伝いもお休みするんだぞ、エッタ」
「…そうですねぇ。考えさせて頂くです」
「……ったく、貧乏性だぞ、エッタは」
くすり、と笑うと緋黒は窓から街路を見下ろす。
コの字型の建物からは、街路の一部しか見えない。だが、そこにはたくさんの出店が並び、たくさんの人が行き来してる。
出店にはどんなものが売られているのだろう?
あの建物の入り口を飾っている派手なのは一体なんだろう?
彼女は町が好きだった。自然の中にいる事も好きだが、こうやって人が人として営みを続けているところを眺めるのも、その中にいて流れの中に身を置くのも好きだった。
「……エッタ。どんな仕事をしたい?」
「お任せするです〜」
「お前の意見を聞きたいな」
「旦那様のなさりたいことをなさいましょう」
それも、いつもの事。
だが、少しだけ違うことがある。……彼女たちの知らないところで。
「………そして、あの二人」
「おいおい、本当に戦えるのか、あの二人は」
「大丈夫。私はちゃんと人を見てるわ」
「……さすが、と言わせてもらうよ」
メスロンが皮肉に答える。リリスの方は、やはりそんなメスロンの仕草を無視すると、髪をかきあげつつため息をつく。
「……リリス。出来れば……今回で、こんな事は終わりにしたいな」
「本当に終わるまでは、終わりません」
つぶやくように答えるリリス。
……それもまた、いつもの事だった。